高瀬舟

ブログ

 

ロンドンの南西部郊外にリッチモンドという場所がある。

 しっとりと落ち着いた住宅の街並みとなだらかな丘から見えるテムズ川の牧歌的な田園風景が印象的なところだ。 ロンドン中心地から地下鉄ディストリクト線で五十分ぐらいだったか、その路線の終着駅のリッチモンド駅が最寄り駅となる。イギリスに四十六州ある行政区分のサリー州にそのリッチモンドは属している。人口およそ十数万人の街―今はもっと人口が増えているかもしれないけど―郊外の住宅地で中流階級の比較的裕福な人達が住むエリアといった感じだ。 リッチモンド駅の周辺は銀行、郵便局、レストラン、パブ、ドラッグストア、スーパーマーケット、オフィス、ブティックなどの店舗が、二階建てバスも走る大通り両側に数ブロックほど隣同士で連なり、落ち着いたおしゃれな商店街を形成していた。何よりも、三階建て以上の建物はその一帯にはなかったので、駅の周辺を歩いていても空への視界が広がり圧迫感がなかった。抜けるような青い空が広がる爽快な日はロンドンでは滅多にないが、それでも雲間から射す光が神々しい小雨上がりの後にぶらぶらと散歩するのはこの上ない快さだ。

 この辺りの街の景観や自然が醸し出す風景は、それ自体が類を見ない名勝地であり観光地だが、世界的に有名な観光スポットとしては、キュー・ガーデンがある。地元の人はキュー・ガーデンと呼んでいて、正式にはロイヤル・ボタニック・ガーデンズ、キューという。冠にロイヤルとあるので、キュー王立植物園といったところか。調べると現在は世界遺産に登録されていた。リッチモンド地区とキュー地区の間に位置していたと思うが、広大な敷地には温室や庭園が幾つもあり訪れる人を魅了していた。たしか日本庭園もあったと思う。足早に見て廻るだけでも半日以上は掛かるはずだ。

 それ以外にも幾つか公園があり風光明媚なところだった―リッチモンド駅からの閑静な住宅地の緩やかな坂を登りきって抜けるとリッチモンド公園に行きつく、そこからの眺めは、緩やかに大地を蛇行しゆったりと流れるテムズ川、川辺を飾る木々、そして雲間からの柔らかな光、いかにもイギリスらしいターナーの画く絵画のような風景が広がっていた―

 以上は時を遡ること四十七、八年前の懐かしい僕の記憶の一片だ。

 僕は居心地の悪い大阪を離れ短い間だったが一年半ほど暮らした。

 渡英以前は、少年から青年へと多感な思春期を迎えていた僕は相変わらず口数の少ない、いつも俯きがちな陰気な扱いにくいままの青年だった。

 大抵のことは母親や祖父母の言うことを従順に聞いて漫然と過ごしていた。今考えれば自分を生きることに無責任な逃避者のような青年だったと思う。 更にもう少し時を遡ろう―

 小学生のころ割と重い病気を発症し学校を休学して治療の為病院に入院した。途中家に戻った期間は少しあったかもしれないが結局は一年ほど入院生活をした。

 子供心にも母や周りの大人に迷惑をかけているといった思いや遠慮のような感情が奥底にあり、子供らしく振舞うことがはばかられた。

 母はそんな僕を心配して接し方を考えたりして、きっと扱いにくさを感じていたと思う。

 祖父母が徒歩で行ける距離に住んでいて看病と家計に忙しい母を何かと手助けしていたが、それでも僕は心身共に母に大きな負担をかけていた。

 当時は、曾祖父も健在であったが高齢ということもあり四国の家業を清算して大阪の祖父の家の離れに移り住んでいた。その曾祖父、祖父母、母は僕に幼少期より愛情を注いでくれていたが、しつけの面では厳しかったように記憶している。曾祖父と祖父は、母がまだ四国に暮らしていた際、僕が産まれて間もない乳飲み子の時父と離婚し父親がいない子供であったのでしつけや不憫さから父親代わりを務めていたのだと思う。元来二人とも寡黙な人で、僕を含む周りの家族にちょっとした威圧感をあたえていて怖い存在だった。

 特に曾祖父は子供のころから家が貧しく、家計を支えるため働いて苦労し村で材木業を成した人なので生真面目で無愛想な人間味に欠けるところがあった。家業の商売と信仰に生きた人でお酒が入るとさらに気難しいところがあった。後に母から聞いたが曾祖父は父を婿養子で迎え結婚間もないころに父から「囲碁でもしませんか―」と言われて「あいつは遊び人じゃ、わしの見誤りじゃった」とこぼし嘆いたそうだ。父にしてみれば婿養子という立場もあり色々と気をつかったのだろうけど―

 祖父は一人息子で、母の話だと学業に勤しんだ人で家業ではなく教師になりたかったが家業を継いで欲しい曾祖父の反対もあり結婚後反発して大阪に出て行ったらしい。その際曾祖父の懇願で長女であった母を四国に残し泣く泣く母の他の姉妹三人を連れて四国を離れた。後に祖父はお酒の席で僕に、あの時無理にでも母を連れて出ていくべきだった酷いことをした、と漏らしている。

 その祖父は日常生活では必要最低限の言葉を一言二言発する程度で、いつも物静かであったが眼差しは曾祖父以上に僕を威圧する佇まいであった。子供の僕が時折珍しくはしゃいでいると「うるさいな。男がごちゃごちゃしゃべるな」と静かにくぐもった低い声調で諭された。

 それでも何かにつけ僕を色々なところに二人は連れて行ったりしてかわいがってくれたが、日がな一日一緒にいても一言も会話をしないことが珍しくもないことが日常だった。

 日曜日には祖父の家で食事を皆でするのが常だったが、テレビの音以外はしないちょっと張りつめたような静寂の家族団らんの食卓だった。

 祖母はそれでもたまに僕だけに「おじいちゃんはお酒を呑むと、いることを言わんで、余計なことは言うんよ―」と耳元で囁いてクスッと微笑む茶目っ気があり、僕にとっては唯一気が休まり少し気が許せる家族だった。

 母は僕の病気を境に口やかましく注意することは少なくなり、段々と穏やかな優しい母になり、僕の言うことを黙って耳を傾けるようになっていた。

 僕は口には出さなかったが病気のせいで僕を気遣うそんな母に少し申し訳なく、子供らしく甘えることもなく物静かにしている僕の様子を憂いて寂しい思いをさせていたし、素直に思いを伝えられない自分に子供心ながら自己嫌悪を感じていた。

その後、青年期を迎えた僕はこのままでは周りの社会に馴染めず適応できない人間になってしまうのではないか―といったぼんやりとした不安がだんだんと大きくなっていた。毎日惰性のように鞄をさげて学校に行き、部活をこなし、弁当を食い、ただ教室で座っているだけ、そして放課後の部活が終わると、人目を避けるようにひっそりと喫茶店で何をするでもなく時間をやり過ごして帰ってゆく。

 僕の高校時代はそんな風に過ぎていった。

 高校をこのまま卒業してさしあたってやりたいこともなかったし、行きたい大学もなかった。自分の考えや行動にまったく自信がなかったし、かといってこのまま母の元で過ごしていくことにも後ろめたさも感じていた。

 そして半年が経った。

 僕は進路指導の先生や周りの勧めもあり二、三大学を選んで受験することにした。そんなある日、当時定期購読していた高校生向けの英字新聞(比較的簡単な英文とその日本語訳で記事が載っている四頁ほどの週刊の新聞だ)に偶然リッチモンドのカレッジの生徒募集記事に出くわした。その記事にあった写真には古城のような校舎の写真が印刷されていて、東京と大阪二か所でカレッジの説明会と選考試験を実施するとあった。

 僕の通っていた高校は優秀な進学校でもなかったが、それでも国立大学にもある程度数の学生を輩出していたし、僕自身もとりたてて成績優秀ではなかったが、さりとて箸にも棒にもかからないほどの成績でもなかった。

 とはいえ正直なところ第一志望のハードルはなかなか高いことも自覚していたし、滑り止めの大学も油断できないと思っていたが―だいいち大学でなにを勉強したいのか目標もなかったこともあり受験勉強もほとんどしない日々を送る不埒な学生だった。

 今ははっきり何を思ってかは思い出せないが天来の衝動とでもいうのか、大学の入試試験よりも早い時期にそのリッチモンド・カレッジの説明会と試験は行われるので、その時は腕試しぐらいの気持ちで家族には内緒で受けることにした。説明会は大半が英語で行われ詳しく説明をしてくれたと思うが、僕の当時の英語力では到底歯が立たないほどだったし、試験も英語での面接もあり、あまり覚えていないがとにかく受かるなんてことは一ミリも望めないほど酷い有様であったと思う。

 もう少しはできるのでは―との淡い気持ちは簡単にへし折られ落胆したものだ。

 しかし人生の節目には不思議なことも起こるわけで、しばらくしてイギリスから送られてきた厚いうやうやしい手紙で合格通知を受け取った。

 運命の悪戯とはこういったことだと思う。

 僕はそれでも第一志望、第二志望の大学入試を受けるのだが、滑り止めの入試は会場には行ったが最初の科目の試験が終わった時点で席を立って会場を後に町をぶらついて帰宅した。

 要は心の内ではもう決めていたのだと思う―

 僕は今までの不埒で無気力なモラトリアムな自分や、そのせいで自ら招いた憂鬱な居心地の悪い周りの生活に終わりを告げようと思った。母や家族、周りの人、そして何より僕自身へ今までの失った時間の贖罪の一歩を踏み出そうとしていた。

 そんなわけで僕は遠島の人となる。

 渡英してすぐ最初の三か月はロンドン市内にある系列の英語学校でまずはみっちり英語を勉強した。大した勉強もせず部活と遊びに明け暮れた中学、高校六年間のツケをたっぷりとその後数年払わされることになったけど―

 なんとかその英語学校も終了し、リッチモンドへ。

 地下鉄リッチモンド駅から歩いて二十分ほどのところにそのカレッジはあった。駅からの道は商店街地区を五分ほどで抜けると、道の両脇は同じような作りのフラットが規則正しく並んでいて、途中、教会があったり、こぢんまりとしたパブがあったりする以外はカレッジまでの道のりはすべて同じような造りのフラットだった。

 カレッジの校舎は古い建物でちょっとした小さなお城のような感じだ。

 カレッジ設立当時からの歴史のあるその校舎の建物はゴシック様式で―たぶんそうだと思う―建てられていた。

 敷地はそう広くないけど建物の前に野球場程度の広さの庭があり、そこにも数軒、日本でいえばひと家族が住めるほどの一戸建てサイズの建物が点々と二つ三つあった。想像だけどその庭に点在する建物はカレッジの使用人などがきっと住んでいたのだろうな、と思う。一部は学生の寮としても使用していたかも知れない。

 校舎は一八四十年ごろに建てられたというから日本では幕末近くの頃で、その十年後ペリーが浦賀に来航している時代の建造物だから、歴史があるといってもおよそ英国の公共的建造物にしては比較的新しいといってもいいぐらいだと思う。

 

校舎を正面から見ると中央に五階建てほどの高さの縦長方形の細長い建物があり、天井部の正面二隅には小塔が突き出ていた。その中央の建物を中心として左右シンメトリーに三階建てほどの高さの横長七、八十メータの長方形の建物が左右につながっていた。中央、左右の建物の天辺は中世のお城に見られるような凸凹の石壁で―これをツィンネというらしい―囲ってあるので、いよいよお城のような造りになっている。建物全体は石造りで、少し煤けたような灰色がかった薄茶色で、正面玄関は中央の建物にあり、仰々しい木の大きな観音開きの校門があった。

 その校門をくぐって中に入ると左右一直線に幅五メータほどの廊下があり、光沢のある白黒の格子模様の床の廊下となっていた。校門を入ってすぐの左手の部屋は天井が高く、広々とした長方形型の天井と壁が厚みと艶のある木造張りのダイニングルームで、僕らはそこで大体朝昼晩と週日は食事をとっていた。

 廊下を挟んで左右には十数室授業をする古めかしい部屋があり、そのほかにも事務室や図書館があった。天気が晴れた気持のいい日には、教授の思いつきで建物の前にある庭の芝生の上に椅子を並べて講義を受けたりもした。この校舎の寮にはおおよそ当時二百名程度の学生がいたと思う。

 僕の部屋は左の建物三階にある八畳ぐらいの広さの部屋で、案内をしてくれた事務員からアメリカ人学生が僕のルームメイトで部屋をシェアすると聞いていたが入居したその日にはまだ居なかった。ベッドとデスク、ちょっとした洋服入れが各二セット二人分備え付けてあり、重い鉄枠にくすんだガラスの観音開きの窓からは校舎前にある庭と遠く流れるテムズ川が見渡せる眺めのよい部屋だった。

 

 初日は手続きなどで夕方までかかったので、部屋に入るのがすこし遅れ廻りは暗くなりかかっていた。入居前になにか手直しでもしたのだろうか、ちょっと埃っぽい気がしたのでカーテンを開き窓をあけてみた。

更けゆく薄暗い夕暮れの冷たい晩夏の風が部屋に滑り込みカーテンを揺らし、火照った僕の頬を撫でていった。

 ふと、何故か僕は昔読んだ鴎外の「高瀬舟」を思い出した―

 僕は憂鬱に過ごした日本を離れ、独り南回りの飛行機を乗り継ぎ、二十数時間をかけてロンドンヒースロー空港に流れ着き、そしてこの堅固なゴシック調の校舎で、遠島と呼ぶにはあまりにもそぐわない解放された気持ちで心に光が射しこむのを感じていた。

 「高瀬舟」の美しい文章の中で息づく喜助は、遠島に向かう舟に揺られ、彼の辛く無情な日々を解き放し手に入れた平穏の心持に身を委ね何を想ったのだろうか―

僕はそんなことを考えながら、喜助ほどではないにしろもう手放そうとしている憂鬱だった日々のことをちょっと懐かしく想った。

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