思考としての嗜好

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通常のマティーニはジンとベルモットの割合は三対一だが、四対一以上がドライマティーニと称される。七対一になるとエクストラドライマティーニと格が上がり、ここまでくるとベルモットの味は、そういえば微かに甘みがあるな―と感じる程度だ。

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 一見で訪れるバーでなければ、僕は大体五対一以上の割合でドライマティーニをお願いしている。そしてオリーブを二つほど―

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 余談だが、ドライマティーニにオリーブを入れるのは、普通のマティーニとドライマティーニを区別するため、あるいは男性的な飲み物としてのドライマティーニと通常のマティーニと区別するため、との説がある。普通のマティーニには以前はサクランボを入れていたという。あるホテルのバーテンダーから教えてもらった。

■思考としての嗜好

―陛下、ひと言申し上げますが、我が人生の規範は、食前、食後、そして、もし必要であれば食間に、神聖な儀式として葉巻そして酒を嗜むことです―

ウィンストン・チャーチルの言葉だ。

 カレッジでの「英国史」の講義で、エッセイの宿題の課題本として読んだペーパーバック本の中に出てくるエピソードで、たしか、禁酒、禁煙の戒律を厳格に守っているアラブの国王との食事会の席で彼が弁舌したものだ。

 第二次世界大戦時にイギリス首相となり瀕死の母国、そしてヨーロッパを救い、ヒトラーに抵抗した、歴史上もっとも偉大な英国人と呼ばれる人物だ。葉巻をくわえビクトリーサインをしている写真があまりにも有名だ。先の発言は随分人を食った話だけれど、そのパグと称される風貌も相まって何かしらユーモラスでなかなか憎めないのである。

 そして生涯、葉巻と酒を愛した無類の嗜好家だ。

 どれほどの嗜好家かと言うと、例えば、資料によると彼の日常は―

朝食の後ジョニーウォーカ黒ラベルのソーダ割りか水割り、昼飯時にはシャンパンのポル・ロジェ、夜はさらにシャンパン、ワイン、ポルトワイン、コニャックなど。加えてキューバ産の葉巻を一日に十本ほど―

 なんとも壮絶な吞みっぷり、吸いっぷりで、虚弱な僕はその旺盛な量を聞くだけで、少々げんなりしてしまう。

 僕は、酒は大体なんでも口にするが、レストランなどで食事前の一杯の際には蒸留酒のジン、ウォッカベースのカクテルが好みだ。 これはイギリスに居た時に覚えた好みだろうと思う。

 中でも柄にもなくマティーニが好きで、特にドライなものが好きだ。

 通常のマティーニはジンとベルモットの割合は三対一だが、四対一以上がドライマティーニと称される。七対一になるとエクストラドライマティーニと格が上がり、ここまでくるとベルモットの味は、そういえば微かに甘みがあるな―と感じる程度だ。

 一見で訪れるバーでなければ、僕は大体五対一以上の割合でドライマティーニをお願いしている。そしてオリーブを二つほど―

 余談だが、ドライマティーニにオリーブを入れるのは、普通のマティーニとドライマティーニを区別するため、あるいは男性的な飲み物としてのドライマティーニと通常のマティーニと区別するため、との説がある。普通のマティーニには以前はサクランボを入れていたという。あるホテルのバーテンダーから教えてもらった。

 馴染みがあまりないので、注文する人は滅多に見かけないが、マティーニオンザロックというのもある。タンブラーに砕いた氷を入れてジンとベルモットを好きな割合で注いで出来上がり。夏の暑い日に、ビールに飽きたら、すっきりとした飲み手に媚びない清涼感があって重宝する。もう少しクセの無い味が好みであれば、先ほど同様タンブラーに氷を入れてよく冷えたウォッカをオレンジジュースでステアしたのがよい。いわゆるスクリュードライバー。これらのいいところは、砕いた氷が少しずつ解けてアルコールが薄まっていくので酔いが浅く,心地よさがいい感じでいつまでも続くところだ。

 件のチャーチルも他のイギリス人同様ジンには目がなかったようで、時折マティーニを愛飲していたという。ただ、前述のようにチャーチルは何事も行き過ぎるエキセントリックな人物のようで、マティーニもベルモットが甘すぎる―しかしベルモット無しではマティーニとは呼べないではないか―そこで、ベルモットのボトルを目の前に置いてそのボトルを見ながら、それも正面からボトルを見ると甘くなりすぎるので横目で見ながら、ドライジンをストレートで飲んでいた、とこれもまた人を食った逸話がある。

 疲れた身体は糖を求め、疲れた精神は酒精を求める―

 これも東京のホテルのバーでバーテンダーから教えてもらったことわざだ。

 なるほど、そういえば思い当たる節が多々ある。

 チャーチルも凡人の僕には想像もつかない精神的ストレス、苦悩があっただろうから、例外なく必要に迫られて酒や紫煙を求めていたのだろう。

 さて、身近な嗜好家として僕には祖父がいた。

 祖父はチャーチルのような大それた人生規範はもちろん持ち合わせていなかったと思うが、それでも酒を愛することでは人後に落ちなかった。

 酒を愛するといっても日本酒一筋。日本酒以外の酒は一切呑まなかった。たとえ喉がカラカラで、それがグラス一杯の良く冷えた喉が鳴るような真夏のビールであっても―

 かといって日本酒の銘柄や種類に特に口うるさいこだわりもなく、もっぱら松竹梅か菊正宗の純米酒が台所に一升瓶で数本常備してあった。旅行の際は持ち運びに便利といった理由でワンカップを旅のお供にしていた。頂き物の珍しい高価な洋酒やワインも、たまに家にあったはあったが、ほとんどは封も開けず戸棚にじっと置物のように鎮座しているか、僕が帰郷した際に遠慮なく有難く頂くか、あるいは誰かに譲ったりしていた。

 大酒家ではなかったが、先のチャーチルの言葉ほどではないにしろ、何かにつけ事あるごとに日本酒を口にしていた。夕食時の晩酌はもちろん、食前の風呂上りに一杯、誰かが訪問してくると言って一杯、車を運転しない日の日中に喉が渇いたと言って一杯、等々。

 そして酔っ払うということがなかった。

 もちろん、呑み進むにつれ機嫌が良くなって、少し顔つきが柔らかになったりして、ちょっと量の度を超すことがあって、祖母に嗜められたりすることはあったが―顔が赤くなったり、足がふらついたり、目が座ったりすることはなかったし、素面の時と変わらず相変わらず寡黙な人であった。

そういった意味では身びいきかも知れないが、綺麗な酒の呑み方をする人だった。

 燗をつける動作だったり、徳利の持ち方だったり、お猪口に迎えに行く口元の角度だったり、呑み方だったり、そういった祖父の一連の動きは優雅で美しく洗練されていた訳ではなかったが、なにか深みのある年輪を感じさせ、心の奥底から滲み出る重厚な風格のようなものを漂わせていた。

 それは儀式であり、生涯の裏切らない友との無言の語らいであり、無償の喜びであり、そしてまた時には沈痛なる後悔の慰めでもある。

 祖父は僕が子供の頃、大阪市内で文具書店店を営んで生計を立てていた。

学校の傍の通り道にある、鉛筆、消しゴム、ノート、画用紙などの学校で必要な文具や学校認定教科書、参考書籍類、指定体操服を扱うようなどこにでもあるような商店だ。その他にも、自宅から数軒の距離の場所に猫のひたい程の土地があったので、十台ほど停車できる月極め駐車場として少しばかりの収入をそこからも得ていた。

 文具書店を営む以前は、幾つか会社勤めをして職業を転々として戦争後の苦しい時代の中、家族を養い苦労したことは話を聴くまでもなく凡そ見当がつく話だ。僕の知らないそういう不遇の時代だったのだ。

 本人は曾祖父の家業を継がず教師になるのが夢だったようで、前章でも触れたように、逃げるようにして家族を連れ四国を去り大阪で新たな人生を始めたが、教師、ひいては教育、勉学への思いは終生あったのではないかと思う。それは生業の商売として接する小学校の教師の在り様を、時に聖職者として賞賛、感嘆し、憤慨する様を横で見聞きすると、やはり教師への憧れや思慕、そしてあるべき姿を思い起こされるのでないだろうか、と思う。

 人生において大きな幸せの一つは、自分で選んだ職業の中に喜びを見いだせることではないかと思う。

 しかし仮にその職業が自分で選んだものでなかったり、能力や環境で仕方なしに他の職業に就いたり、あるいは幸運にも願っていた職業に就いても、その喜びが見いだせなかったときにその職業を捨て新たな歩みを始められる人がどれほどいるのか―

 祖父はそのように挫折を味わい、手が届かなかった夢を諦め、あらがえない人生に身をゆだねるしかなかったのではないか。生前、祖父が酒を呑む姿を横から眺めていて、そんな悲哀を感じる時があった。

 それはこんなちょっとした場面でもふと顔をのぞかせる―

何かの折に名前だの、生年月日、住所と共に職業を記入する際には、祖父は自営業と書かずに、「指定教科書供給業」と丁寧に書くのが常だった。

 そこに自分の今の職業と教師の間にある糸のような細い繋がりや、彼なりの名分を立てるプライドのようなものがあったのでは―それは教師として携わりたかった学校やら教育に近い仕事として手に入れた「指定教科書供給業」ではなかったのか―

 僕が社会人になり千葉に移り住み、何かの折に大阪に帰郷し、祖父との夕食時の酒の席で気が向いて昔話をする際も、その文具書店以前の職業ことになると口が重く気が進まぬようだった。口に出す機会がなかったのか、思い出したくなかったのか、それはわからない。しかし祖父は生きる為、家族を養う為、そうせざるしかなかった自身の身を憂いていたのだろう。自身のことを饒舌に語る人ではなかったし、僕自身も家族とはいえ人の昔のことをあまり詮索して尋ねることは好きではないので真実はわからない―

 文具店は―といっても自宅兼店舗でもあったが―主に祖母が買い物客や学校帰りの子供たちを相手して切り盛りしていた。祖父は教科書を供給している先の数校の小学校や福祉学校への注文取り、配達が日中の主な仕事で、朝、車で外回りに出かけ、昼前に一旦帰宅し自宅で昼食をとって、また外回りに出かけるといった風であった。

たまに、祖父の家で祖母が外出して、母もいないときは、昼食が終わった後、台所にある日本酒の一升瓶をごそごそと取り出して、湯呑に一杯ついで店舗の事務机で両切りのピースの煙草を吸い口に刺してくわえ、食後のお茶のように旨そうに酒を呑みながら、ピースを燻らしていた。

 その後また車を運転して出かけるのだから、今なら酒気帯び違反ぐらいにはなりそうなものだが、当時はさほど厳しくもなかったろうし、仮に何かの拍子に警官にとめられてもお咎めはなかったのだろう。

 もっとも、小さな湯呑に一杯で昼食後はそれ以上呑むことはなかったけれど。

 本人も別に悪びれた風でもなく―いや、悪びれていたのかもしれないが、なにせ祖母や母が居ない隙に、密かな「お楽しみ」の一杯をやっていたのだから―子供の僕が眼の前に居ても堂々と、悠々と日本酒の甘露を楽しんでいた。取り立ててそのことを祖父と二人で口にすることもなく、なにやら二人だけの秘め事のようで、なぜだか僕はすこしうれしかった。

 祖父の日本酒好きは有り体に言うなら、筋金いりであった。

 晩年、生活に少し余裕ができ旅行を年に一回程度、祖母と二人で行くときも、いつもきまって出発時に一升瓶か、あるいはワンカップの日本酒が世に出回ってからはワンカップを大量に持っていく程で、滞在先の食事には持参の日本酒を呑んでいた。それはたまの海外旅行時でも変わらない。現地のフランス料理であろうがイタリア料理であろうがお構いなしに、必ず持参の日本酒をテーブルのお供にしていたようだ。

 ワインも現地の給仕に進められて口にしたことはあったが、「こりゃ、アカン!」と一口でやめてポケットに忍ばせたワンカップの日本酒で口を洗ったと祖母が面白おかしく話していた。

自宅での晩酌の時は、冷酒で喉を潤すということはまずなかった

 徳利が持てぬほどの熱燗で飲むというのが習慣で、お燗をした徳利から小さなアルミ製の急須のような入れ物に移して、そこからお猪口についで呑んでいた。

 特別な食事や集まりの際以外は大体二合ほどを毎晩晩酌していた。

 祖父は―いや代々僕の家はそうなのかもしれないが―お酒には寛容で、僕が中学生になると、一緒の食事の席で「ちょっと、舐めてみい」とお猪口に熱燗を注いで僕に勧めた。祖母も母も特段それを止めることもなく、どちらかというと少々面白がって見守って観ていた。

 グイと美味しそうに呑むと、普段は滅多に表情を崩さないが満面の笑みを浮かべ「そうかそうか―美味しいか。こりゃ、ええわ。こいつもやっぱり酒飲みなりよる―」とえらく機嫌がよかった。

 ある時、僕が祖父の徳利からお酌をしようとすると―

「そういうことはやらん方がええ。社会に出たら酌もせなあかん席があるやろうけど、それは儀礼的に最初だけと割り切ってやればええ。飲む人の好きに手酌で注いで吞めばええんや。お酒は自分で注ぐ時から愉しむもんや。ビールでもなんでも瓶なり徳利は相手側の傍においておけば向こうが勝手に手酌で呑みよる。自分が飲みたければ手を伸ばして「頂きます」と声をかけて手酌して呑んで、相手側に戻しておけばええ。酒は次ぐ傍からアカンようになっていく、好きな時に自分で注いで、呑むのが一番旨いし、作法ちゅうもんや。酒を注ぐとこからの飲み手の愉しみを勝手に奪ったらいかん。わかったか。」

 祖父はそういうと、いそいそと、新しく別の徳利を持ってきてお燗をつけて、僕の横に置いた。

 もう一つの嗜好―

 祖父は朝目覚めてから起きている間中、両切り煙草のピースを象牙の吸い口に刺してくわえていた。家に居る時は缶入りのピースを、外出時は紙の箱詰めのピースを持ち歩き愛用していた。甘く柔らかいバニラチョコレートのような香りがたまらない魅力の煙草だ。こちらも日本酒同様、誠実に脇目も降らず浮気せず両切りピース一途だった。たまに僕が吸っているハイライトを勧めたこともあったが、紙臭いな―といって灰になる前に灰皿にそっと置いた。

 煙がゆらゆらと立ち昇り、白い細い帯のようにからまりながら描く流線の漂いを傍らで眺めていると文字通り心が休まるような気がした。

 時折、使っている吸い口を、短く切った針金と紙縒りで祖父がヤニ取の掃除をしているのを眺めるのも幼いころの僕にとってはとても楽しい時間だった。

 たまに、祖父は黙って吸い口を僕の前に差し出して、掃除をさせてくれる時もあった。

 僕は少しうれしくて、祖父がいつもしているよりももっとキレイにしようと、並々ならぬ情熱で吸い口の中を掃除して渡し、祖父がそれをふっと吹いて煙道を確かめたり、眺めたりして、満足げに眼鏡越しに僕を見て頷いてもらうのが子供心にちょっと誇らしかった。

 祖父は概ね一日中吸い口をくわえて過ごしていた。一本吸い終わっても新しくまた吸い口に刺して、また火をつけてくわえるといったチェーンスモーカーで、煙草を吸うというよりも、いつも煙草を燻らせてたまにふかしている、といった感じだった。褒められたことではないが、床に就く際も必ずアルミ製の灰皿に少し水を入れて、寝床の枕元に置いておき、夜中に目が覚める際に一服するのが常で、祖母も母も誰もそれをとがめることはなく、僕にとってはごく当たり前の日常だった。

 祖父が吸い口をくわえマッチで火をつける所作も子供の僕を魅了するものだった。

 マッチ箱を左手に無造作にとりあげ、親指と中指でマッチ箱の両脇を挟み、人差し指でマッチ箱の中の引き出し状の中箱の端を少し押しスライドさせ反対側に出たマッチ棒を右手で一本取り出し、右手の親指、人差し指、中指で軽くダーツの矢をつまむようにマッチ棒の頭を下にして持ち、左手のマッチ箱の横に少し勢いよく下にこすり叩きマッチ棒に火を点ける。ほんの少しの間、焔が山型に燃え落ち着くのを待って、煙草の端に持っていって火を点け、一度深く吸って、マッチ棒を二度三度振って火を消し灰皿にマッチ棒の燃えカスをポンと捨てる、一連の動作を淀みなくするのはなんとも心くすぐられる大人の所作だった。

 野外で風のある時などは、器用にマッチ箱と両手でお椀を持ち上げるように両手で風よけの格好を作ってその囲われた中にマッチの炎を包み、煙草をよせてマッチの火が消えないように火を点けるなんていうのも、ちょっと手品じみていてすこぶるかっこよかった。

 僕は自分が煙草を吸うようになって初めの頃はライターを使わず、祖父のようにマッチを使っていた。祖父のようにマッチで火を点ける行為をやってみると分かったことだけど、十回に一、二度火を点け損ねることがある。マッチの擦り方が勢い良すぎて、炎が消えてしまったり、両手で祖父のまねをして風よけをつくってみても、どこかから風が侵入してくる隙間や穴があってすぐ消えたりと、失敗することがあった。ある程度経験と熟練がいるのだ。

 そのうちビックの使い捨てライターやらその模造品のライターが主流になったので、マッチはあまり使わなくなったけど、すこし味気ないような気がして、マッチが手元にあるときはマッチで火を点けた。

 祖父は考え事をするときや人の話を聴くときはきまって吸い口を口にくわえ甘い煙草の煙りを燻らせて静かに佇んでいた。ときおり喋るときや、お酒を口に運ぶ際は、吸い口を煙管を持つように手のひらを上に向けて親指、人差し指、中指で吸い口を持ちテーブルに肘をついていた。

 祖父が他界した際に僕は千葉に居て看取ることはできなかったが、帰郷して遺品整理をしたときに晩年祖父が使っていたお猪口やヤニで少し黄ばんだ吸い口を祖母はどこからか出してきて見せてくれた。それらはきれいに洗って磨かれ、少し艶があった。

 手に取って眺めて見ると、それらは生前祖父が使っていたときのような脈々とした気配は感じられず、ただ寡黙にそこに存在するのみだった。

 祖父は僕に説教じみたことを言ったり、叱咤したりすることはほとんどなかったけれど、僕がイギリスやアメリカに留学するときに見せた満足そうな顔や、卒業して帰国した時に嬉しそうにお酒を呑み煙草を吸う様子は、それらの愛用していた徳利、猪口、吸い口に染みついて、海岸に打ち上げられるより物の枯れた木の枝のようにそこにじっと佇み、連想させる記憶として少し色あせてはいるが、つぎからつぎへと顔を出し、そしてまた心の中に沈んでいく。

 酒や煙草は僕に多くのことを祖父の回想として思い起こさせ、いろいろなことを思考として教えてくれる。歴史に刻まれる人であれ、人知れずひっそりと生涯を生き抜いた人であれ、その痕跡は消えることなく存在し続ける。

 それ自体は生をもたず、物言わぬ寡黙な存在だけど、ひとたび思い出にある祖父の酒精や紫煙の手にかかると、命が吹き込まれたように息づき、祖父の心の奥底にある、幾多の喜び、苦悩、痛み、後悔の精がいつの間にか僕に寄り添い、そして語りかける。

嗜好―寡黙で深遠な思考の雄弁者だ。

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